1185年
千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 11世紀 - 12世紀 - 13世紀 |
十年紀: | 1160年代 1170年代 1180年代 1190年代 1200年代 |
年: | 1182年 1183年 1184年 1185年 1186年 1187年 1188年 |
1185年(1185 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
カレンダー
- 1185年のカレンダー(ユリウス暦)
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できごと
日本
- 平氏軍が屋島の戦いに敗れ、海路西へ逃れる。
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 壇ノ浦の戦いに平氏一門が滅亡[1]、安徳天皇が入水。
- 源義経の勝報が鎌倉の頼朝に届く。
- 無断任官の東国武士24人頼朝により処罰される。
- 源頼朝の命により土佐坊昌俊、義経を襲撃するも失敗、後白河法皇より源義経頼朝追討の院宣を賜る。源頼朝大軍を発する。
- 源義経追討の院宣出る。源義経大物浦より船出し消息を絶つ。
- 7月18日(元暦2年6月20日)(玉葉巻四二など多数から)、
- 8月6日(元暦2年7月9日)(吾妻鏡巻四など多数から)、京都一帯に大地震(文治地震)。御所の建物も危険視され、園庭に幄を設けて御所とした。地割れが走り、液状化によって水吹き出す[2]。
- 源広綱、駿河守に就く。
- 源頼朝、守護・地頭を設置。
- 島津忠久、島津荘の下司識に就く。
- 九州に鎮西奉行が設置される。
- 鎌倉幕府が成立した年とされる(ただし、どの出来事をもって鎌倉幕府の成立とみなすかの解釈に差異があるため、1180年、1183年、1185年、1190年、1192年と諸説ある。詳細は鎌倉幕府を参照)。
誕生
「Category:1185年生」も参照
- 4月23日 - アフォンソ2世、第3代ポルトガル王(+ 1223年)
- 10月15日(文治元年9月20日) - 九条良輔、鎌倉時代の公卿(+ 1218年)
- グリエルモ3世、シチリア王(+ 1198年)
- 大炊御門麗子、土御門天皇の中宮(+ 1243年)
- 中原師員、鎌倉時代の文官御家人(+ 1251年)
- 鷹司兼基、鎌倉時代の公卿(+ 没年未詳)
- 伊達義広、鎌倉時代の武将(+ 1251年/1256年)
死去
「Category:1185年没」も参照
- 2月12日(元暦2年1月11日) - 藤原隆季、平安時代の公卿(* 1127年)
- 3月16日 - ボードゥアン4世、エルサレム国王(* 1161年)
- 3月22日(元暦2年2月19日) - 鎌田光政、平安時代の武将(* 生年未詳)
- 3月22日(元暦2年2月19日) - 佐藤継信、平安時代の武将(* 1158年?)
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 平経盛、平安時代の武将(* 1125年)
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 平教盛、平安時代の武将(* 1128年)
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 平時子、平清盛の妻・安徳天皇の祖母(* 1126年)
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 平知盛、平安時代の武将・平清盛の子(* 1152年)
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 平教経、平安時代の武将(* 1160年)
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 平資盛、平安時代の武将(* 1161年)
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 平有盛、平安時代の武将(* 1164年)
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 平行盛、平安時代の武将(* 生年不詳)
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 安徳天皇[3]、第81代天皇(* 1178年)
- 4月25日(元暦2年3月24日) - 平家長、平安時代の武将(* 生年未詳)
- 6月6日(元暦2年5月7日) - 平能宗、平安時代の武将(* 1178年?)
- 6月16日 - リクサ・シロンスカ、ポーランドの王女(* 1140年?)
- 7月19日(元暦2年6月21日) - 平宗盛、平清盛の三男(* 1147年)
- 9月12日 - アンドロニコス1世コムネノス、東ローマ帝国コムネノス王朝最後の皇帝(* 1123年)
- 11月19日(文治元年10月26日) - 土佐坊昌俊、平安時代の武将、僧侶(* 生年未詳)
- 12月5日(文治元年11月12日) - 河越重房、平安時代の武将(* 1169年?)
- 12月5日(文治元年11月12日) - 河越重頼、平安時代の武将(* 生年未詳)
- 12月6日 - アフォンソ1世、ブルゴーニュ王朝の初代ポルトガル王(* 1109年)
- 秋山光朝、平安時代の武将(* 生年未詳)
- イブン・トファイル、グラナダ出身のイスラム哲学者(* 1105年)
- 完顔允恭、金の皇族(* 1146年)
- 菊池隆直、平安時代の武将(* 生年未詳)
- バースカラ2世、インドの数学者、天文学者(* 1114年)
- 藤原忠清、平安時代の武将(* 生年未詳)
- 藤原景経、平安時代の武将(* 生年未詳)
出典
[脚注の使い方]
- ^ ファータド 2013, p. 131「平家滅亡 源義経が壇ノ浦の戦いで平氏一門を破り、朝廷に代わる武家政権が成立する。」
- ^ 水野章二「中世の災害」/ 北原糸子編著『日本災害史』吉川弘文館 2006年 150ページ
- ^ 『安徳天皇』 - コトバンク
参考文献
- ピーター・ファータド(編集)、2013、『世界の歴史を変えた日 1001』、ゆまに書房 ISBN 978-4-8433-4198-8
関連項目
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