鄭森

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鄭森
靖都王鄭森(『鄭家正譜』より)
各種表記
漢字チュノム 鄭森
北部発音: チン・シャム
日本語読み: てい しん
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ベトナム史略/第2巻/自治の時代/第5章

鄭 森(てい しん[1]、チン・シャム[2]ベトナム語Trịnh Sâm / 鄭森永佑5年2月9日(1739年3月18日) - 景興43年9月13日(1782年10月19日))は、後黎朝大越の権臣、東京鄭氏の第10代当主。『大越史記全書続編』では𣛧ベトナム語Trịnh Chuôm / 鄭𣛧、木偏に森)と記される。

生涯

景興28年(1767年)に父の明都王鄭楹が死去すると、跡を継いで朝廷から靖都王に封じられた。景興32年(1771年)、広南国西山県阮岳(中国語版)阮恵阮侶(中国語版)の三兄弟に率いられた西山党の乱が勃発した。景興35年(1774年)、広南阮氏の支配が揺らいだと見た鄭森は、西山三兄弟と手を組んで曄郡公黄五福(中国語版)を将とした軍を大挙南下させ、広南阮氏の本拠地だった富春を攻略した[3]阮福淳を南方に逃走させたものの、軍内に疫病が広まったために撤退せざるを得ず、広南の地の支配権は西山三兄弟の手中に帰した。

晩年は愛妾の鄧氏恵(英語版)の讒言を信じて世子の鄭棕(後の鄭楷)を廃し、寵愛していた庶子の(中国語版)を世子に冊立した。

景興43年(1782年)に死去し、鄭が跡を継いだ。聖祖廟号を追贈され、生前に指定していた盛王された。

家族

  • 継室:楊氏玉歓(中国語版)
  • 側室:鄧氏恵(英語版)
    • 長男:鄭楷(母は楊氏)
    • 次男:(中国語版)(母は鄧氏)

出典

  1. ^ 小林知 著「鄭森」、池内宏; 矢野仁一; 橋本増吉 編『東洋歴史大辞典』 中(縮刷復刻)、臨川書店、1986年10月1日、1408頁。ISBN 978-4653014690。 
  2. ^ 小倉, p. 187
  3. ^ 桜井由躬雄「ベトナム世界の成立」『東南アジア史 I 大陸部』、209頁。 

参考文献

先代
鄭楹
東京鄭氏第10代当主
1767年 - 1782年
次代
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