ヴィシー政権によるユダヤ人並びに外来者に対する法

ユダヤ人規定に関する1940年10月3日法律(1頁) ペタンにより署名されている。
ユダヤ人規定に関する1940年10月3日法律(2頁)

この記事ではヴィシー政権下でユダヤ人及び外国人に対して制定された法律について述べる。

ヴィシー政権下の1940年10月3日、フランスのユダヤ人を差別的に取り扱う最初のユダヤ人規定(: statut des juifs)であるユダヤ人規定に関する1940年10月3日法律: Loi du 3 octobre 1940 portant le statut des juifs)が可決された。これは例えばドランシーのような収容所にユダヤ人を集め、強制収容所や絶滅収容所にて虐殺する前段階として、ユダヤ人の社会的階級を低下させ、市民権を剥奪することがその目的だった。ユダヤ人やその子孫をある種の社会的立場から排除するこの法をヴィシー政権はナチス・ドイツから強制されることなく自発的に採択した。フィリップ・ペタン元帥の側近、アンリ・デュ・ムーラン・ド・ラ・バルテール(英語版)の話によると、「ヴィシーの反ユダヤ立法の原因はドイツによるものではなかった。その法は自発的かつ自主的に立法化されたものであった。」[1]

経緯

1940年7月22日、「国務次官[訳語疑問点]」(sous-secrétaire d'État)ラファエル・アリベール(英語版)(Raphaël Alibert)は1927年からの500,000件の帰化手続きを見直すため委員会を結成した。この結果、15,000人(そのうち40%はユダヤ人)のフランス国籍が無効となった。アリベールはユダヤ人に関する法に署名した。

これら法はナチの法や命令を真似たものであったため、それ同様残酷なものであった。またそれ故イタリアのファシストが制定した法よりも厳しいものであった。ペタンによる新政権が開始されると法による制限が実施されるようになった。まずヴィシー政権成立のわずか一月後に最初の法が施行された。

またこの、ドイツへ利敵協力を行う政権は、ユダヤ人を狩るため、フランス警察が執行するナチの政策を実行に移し、捕縛したユダヤ人をSNCFの駅舎に連行し、後程「ユダヤ人問題の最終的解決」の一環としてフランスの強制収容所に送り込まれた。

類似の制定法はその後、アルジェリア(1940年10月7日)、モロッコ(同年10月31日)、チュニジア(同年11月30日)といった当時のフランス植民地にも適用された[2]

他の社会・民族集団に対して

フリーメイソン共産主義者などその他の社会、民族集団に対してもこの新政権は圧迫を加えた。1941年ソ連への侵攻が開始されるまで、共産主義者の取り締まりはナチの実施計画の中ではさほど高い優先度を与えられてはいなかった。

各種法令

アドルフ・ヒトラー1933年1月30日にドイツの政権を握った。ペタンはその7年後、1940年6月17日フランスの権力を得た。次の表はヴィシー政権とナチス・ドイツとで、反セム主義的法の制定措置と互いに対応する法的措置の採択にかかった期間を比較したものである。また政権獲得から立法化までにかかった時間も同時に記している。

法的措置 ヴィシー政権 ナチス・ドイツ
成立日 経過期間 成立日 経過期間
ユダヤ人の帰化取消・市民権剥奪 1940年7月16日 1か月 1933年7月26日 6か月
陸軍からのユダヤ人排除 1940年10月3日 3か月 1936年6月26日 41か月
報道機関・出版界からのユダヤ人排除 1940年10月3日 3か月 1933年10月4日 8か月
商業・産業職からのユダヤ人排除 1940年10月3日 3か月 1938年6月6日 64か月
公務員からのユダヤ人排除 1940年10月3日 3か月 1933年4月7日 2か月
企業売却・借受の許可制度化 1941年3月9日 8か月 1938年4月26日 63か月
ユダヤ人学生の排除 1941年6月21日 12か月 1933年4月22日 3か月
ユダヤ人弁護士の排除 1941年7月16日 13か月 1933年4月4日 2か月
「ユダヤ的」職業の認可制度化 1941年7月22日 13か月 1938年6月14日 64か月
商業・産業からのユダヤ人の完全排除 1941年7月22日 13か月 1938年11月12日 70か月
ユダヤ人資産の管財人指定 1941年7月22日 14か月 1938年12月3日 70か月
ユダヤ人医師の排除 1941年8月11日 14か月 1935年12月13日 34か月

脚注

  1. ^ ロバート・サットロフ(英語版)(Robert Satloff)のAmong the righteous: lost stories from the Holocaust's long reach into Arab lands(2006, ISBN 978-1586483999)p.31からの引用で、元はマイケル・カーティス(Michael Curtis, ラッガーズ大学教授)のVerdict on Vichy: power and prejudice in the Vichy France regime(ISBN 978-1559706896)p.111にて言及されている(1946年10月26日)。
  2. ^ Robert Satloff(英語版) (2006). Among the Righteous: Lost Stories from the Holocaust's Long Reach into Arab Lands. PublicAffairs(英語版). pp. 26. ISBN 1586483994 

関連項目

フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
Loi du 3 octobre 1940 portant statut des Juifs
フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
Loi du 2 juin 1941 portant statut des Juifs
フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
Décret du 6 juin 1942 (Decree of June 6, 1942, 政令)
  • モーリス・パポン - 有名な対独協力者。
  • フランスにおけるユダヤ人の歴史(英語版)
  • フランスにおける反セム主義(フランス語版)
  • フランスにおける強制収容所(英語版、フランス語版)
  • アーリア証明(英語版)
  • ヴィシー政権のホロコースト協力に関する年表(フランス語版、ドイツ語版)

外部リンク

  • Les lois et le statut des Juifs, extrait du procès Papon(フランス語)
  • Site Aloumim, Le statut des Juifs : 1940, « Loi portant statut des Juifs »(フランス語)
  • Exil ordinaire.org, Traces et empreintes, différentes sources sur les exclusions de Juifs en 1939-1945(フランス語)


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